脱学校化

イヴァン・イリイチによる概念。『脱学校の社会』で語られる。イリイチによれば、「学校」とは当人の可能性を開き、自由を約束する学習の場所というより、当人を産業社会の消費者として適応させ、学歴による身分制度を正当化するための機関である。イリイチの批判以外でも、近代以降の学校制度を批判する議論は多い。例えば、ピエール・ブルデューは、文化資本の概念を用いて学歴が世代を超えて相続され、再生産することを実証的に明らかにした。イリイチやブルデューの視点から言えば、一般に信じられているほど「学校」は神聖な場所でも、未来や可能性に満ち溢れた空間でもない。

このような批判的視点から、パウロ・フレイレのような旧植民地下の教育や、自治、エンパワメント、コミュニティオーガナイズのような活動が生まれる。

むいむいの森は、脱学校化を足掛かりとしながら、よだかの学校(市民大学)の活動を織り交ぜて、 当事者による自治を目指している。

それと同時に、反知性主義にも警戒している。「脱学校化」という言葉は、イリイチの議論から離れ、現実の学校現場を無邪気に批判した全般的な反学習、反知性の態度に陥りがちである。しかしおそらく、再現性の高い工業技術において、知を非階層化することは不可能だ。ある目的に便利な人工知能を開発するとして、その実装と結果には確実に優劣がある。したがって、「ある目的」を設定した時点で、現行の学校制度が規定するような教育方法や評価を回避することは、難しい。この文脈で、バカは文字通りに何の役にも立たず、事業「には」有害だ。

しかし、「脱学校化」が必要で、有効なのは「ある目的」を設定する時点である。目的を自ら設定したり、自治したりすることは、途方もない学習を必要としており、反知性とは全く異なる。