習合

哲学上または宗教上で、相異なる諸種の教理や学説が融合すること。 神と仏を結びつけて、その本地垂迹を考えた、神仏習合はその一つ。

柳田国男や宮家準は、日本の「ヤマノカミ」などの民間信仰・民俗信仰にみられる大らかな習合の中に、社会変動や民衆思想、民衆運動の力を見出し、肯定的にとらえた。

柳田によれば、常民の思想・倫理・信仰の順序は、集権的な権力や国家が特定の信仰を公認したり、禁止したりしても、それほど日常生活から離床しない。天津神に対する国津神、仏教に対する神道、国家神道に対する祖霊信仰など、ある信仰を受け入れることが、必ずしも全面的な服従や変革を意味しない。全く矛盾する神々や霊性を受け入れて1つの「ヤマノカミ」の社に収めてしまう。これは論理的思考に欠けるのではなく、穏やかな面従腹背の民衆抵抗なのである。

近年、このような矛盾と葛藤を未解決のまま受け入れる思考方法を肯定的に捉えることもある。習合は、ヘーゲル的な二項対立と止揚による進歩史観を解毒するかもしれない。あるいは、脱構築の1つの形式なのかもしれない。

むいむいの森は、次々と提案される外来思想やその基準(例えば、SDGsやESG)を、 面従腹背して土着の民間信仰に習合することを試みている。外来思想によって、評価され客体化され指標化された結果、何らかの制度に服従させられることに抵抗する。要するに「あなたはSDGsの指標によると、全国最下位ですね」という客体化に対して、「それは「もったいない」という、当たり前のことですね」と反論して主体を守る。ほとんどの事柄は、数千年の歴史を持つ民間信仰の考え方を再発掘することで理解可能だ。新しい横文字を提案する必要はないのかもしれない。

この習合の態度は、民主化や気候正義、子どもの権利、女性活躍などなど、進歩的な実践と矛盾しない。なぜならば、グレーバーの指摘通り、「民主主義」はヨーロッパ人の発明ではなく、専売特許でもないからだ。アラブの民主化へ干渉して軍隊を送ることは、民主的な実践とは真逆である。おそらく、SDGs的な内政干渉・外発的開発・自治喪失も同様である。気候正義は、グローバルな発明とは全く言えない。おそらく、ほとんどの民間信仰に気候正義を実現するための倫理はすでにある。